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自虐の在り方2

↓の記事の続きですアサコシです。

「どうで死ぬ身の一踊り」のどこに魅かれたか?

それはこの小説が「私小説」であるという、手法の部分にあると思う。

まあ手法といってもそんな外側の話ではない。
あらすじは前回書いたとおり。甘っちょろい感情移入を廃している。
しかし、男女の会話、作者の独白など、愚か過ぎてバカバカしさを感じる。
感情移入できない、ぶっ飛んだ、理解不能な、不愉快な登場人物。
絶対に好きにはなれないハズ。では何故?


私小説だから、作者の一人語りで進む。
つまり、回想に近いものを記していくわけだ。
そこに作者西村賢太の「視点」が生きてくる。
自分すらを観察の対象とし、そのねちっこい嫌らしい眼(褒め言葉)で、
冷徹に、しかし残酷に分析し記録する。
そこには私小説にありがちな「甘え」も「美化」もかけらもない。
「理解不能な」「しょうもない」「愚かな」自分を、徹底的に第三者として突き放す。

本来絶対に味方であるべき「自分自身」からすら見捨てられた作中の作者。
その孤独・絶望は一層深化していく。もう逃げ場はない。

たぶん読者は、この本にユーモアを感じるだろう。
矮小な人間性を笑うだろう。
それは暗い笑いだ。嘲りだ。嗜虐的な目線だ。
しかし作者自身の行動を上から見下ろしている自分の横で、
同じ視点で作者自身が、もしかすると自分以上に笑っている。
自らの愚かさを。徹底的な、美化できぬ破綻を。

その甘っちょろくない破滅的な「自虐」に、恐ろしさと魅力を感じた。

女との生活の破綻を信じられず、強がって振舞う「自分」を、
その後の悲劇的(自業自得ゆえ喜劇的)展開を知る「自分」が描いているというウロボロス的構図。

西村賢太という作家の、暗ーい深淵を見た気がした。

この人は追いかけなきゃ。

2009/07/19 システム | | コメント(0)


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