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「みんなのへや/無縁バター」セルフインタビューその2

「芝居は閉鎖的だ!演劇作品について作者はもっと語るべきだ!」と叫んでみても、誰も聞いてくれないから自演対談。コメディ台本作家兼コメディ演出家、冨坂友と文芸助手兼演出助手兼出演する浅越岳人が本気で自作解題。新作公演の着想から目論見まで、これを読めば「みんなのへや/無縁バター」が10倍楽しめる!!
「みんなのへや/無縁バター」脚本・演出 冨坂友へのインタビュー 聞き手:浅越岳人


・無縁バター

浅越(以下A) 「無縁バター」は話しづらくてさ。俺が出てるってのもあるし、サスペンス的な部分もあって中身に触れにくいのもあるし。とりあえず、どういうところから発想が来たのかって話から探ろうと思う。
冨坂(以下T) 実は興味を持ったのは「みんなのへや」より古くて。前回公演のときくらいに、「無縁社会」をテレビで見て。
A NHKのドキュメンタリーね。
T それ以降雑誌とか新聞でも「孤独死」っていうのが取り上げられるようになって、すごいドラマのある現場だな、と。あとそれこそ、浅越がそういう経験した、て話があって。
A ああ、去年の暮れに、北海道で一人暮らししていた祖父が死んで。現場で遺品の片づけをしに行って。
T リアル「無縁バター」。
A リアルっつーか。実際死体が少し溶けて汁残ってたけど。
T ていうのもあって。なんだかアンタッチャブルだけどドラマがありそうな、危ないもの・怖いものへの興味・好奇心、もしくはそういうものにドラマを求めてしまう野次馬根性はやっぱりあって。あとそういった話をどこまで「お話」として語れるのか、そろそろ試してみたい。
A シチュエーションコメディの文法でずっと書いてきて、その縛りを一回外してあげて、なにを書きうるか。
T 「孤独」とかのテーマに関しての、「物語」をそろそろ作ってみよう、と。脚本として。
A 一言でいうと、「無縁バター」はどういう話?
T 孤独死した男の部屋で、ある重大なものが見つかる話。簡単に言うと、孤独死した男の遺品と腐乱死体を片づける「特殊清掃」の男たちと、不動産屋が部屋を片づけていく、ていう。
A モノを片づけていくことで、それに突っ込んでいく「片付けコメディ」の要素に、新たなモノが見つかって状況が変わっていって、て筋立て。そういう意味では想像はしやすいかな、と思うんだけど。
T 中身があるからね。


・無縁バターはブラックか?

A コンセプトとして俺は、死体という不可侵な・忌まれているものとコメディ、まあ俺はそんなに遠くないと思っているんだけど、そういう「暗いもの・不快なもの」と「明るい・楽しいもの」をどう見せていくか、ていうところだと思っていて。その一つの方向として、ブラックコメディがあると思うんだけど。
T 死体を操る、とかね。
A もっというとスプラッター映画の楽しさ。首が飛んでゴロン、血がブシュー、キャーってところで笑う。そういうものとは違うの?
T うーん、違い、ますね。
A 死人はバカにしてるけど。
T バカにしてるね。
A 前々から冨坂は「ブラック」なものを避けている、みたいなこと言っていたんだけど、これは違うの?
T これは俺が避けていたブラックとどう違うのか、てこと?、、、不快さを笑っていないってことかなあ。タブーであることを笑っているわけじゃなくて、「亡くなった人を悪く言うな」には思いっ切り反しているんだけど、それは死んだことの不快さを笑っているのではなくて。死じゃなくて、死んでいて腐っているだけで、生きている時のダメ人間に対する突っ込み。ブラックが嫌っていう人は不快であることを笑う、ていうそこが嫌なんじゃないかと思うんだけど。俺はそこ得意じゃないし。
A うーん、「死」そのものを笑っているわけじゃなくて、死んだことによって浮かび上がるその人の生き方みたいなモノを笑っている。だからもしかすると片付けている部屋の持ち主が死んでいるんじゃなくて、ただ出かけているだけでも、笑いの質は変わらないのかも。そういうこと?
T うん、死ぬ、ていう不幸なことを笑っているんじゃなくて、生きている間のダメなことを笑っているから。


・孤独死という現象

A もう一つ聞きたいのが、この作品はそこに迫る物語だから、話せる範囲でいいんだけど、「孤独死」をどう捉えているか、ってことなんだけど。
T 何とかしなきゃいけない、大変だなあ、ていう社会問題と野次馬根性。それだけで、自分がするって言う恐怖がない。いや、自分がしないって思っているんじゃなくて、する可能性は十分あるんだけど、別に怖くはない。
A 俺はすごい怖いけどね。
T  なにが怖いのかがわからない。死ぬときにどうか、ていうのが全然気にならない。だからほんとに野次馬根性。それからどれだけ調べても、何冊本読んでも、孤独死自体には共感できなかった。同情はするけども、共感はできなかった。生きている間どうだったか、とか後悔の中死ぬ、とかはわかるけど。
A そういう人間が書く孤独死の話が面白いかどうか、てことだよね。
T そこが難しいところ。
A そういう孤独死への視点、そういうものは反映されている?
T そう、ですね。がっつり出てます。孤独死って、どういうものなんだろうね、ていう。


・みんなのへや/無縁バター

A 俺はこの二本の手法はアガリスクの二本柱だと思っているわけね、必殺技の。
T うん、作り方として、明確な両面を追求した二本立て。芝居のテンションとか、目線とかも。
A 観るときのお客さんのモードも。
T あと、シチュエーションコメディという言葉の持つ二面性みたいなものも表れていて。これ偶然。「みんなのへや」は相関図とかフレームの面白さで、「無縁バター」
は特殊な状況を覗き見するって言う面白さで。その極端な部分。
A  これは意識していないの?
T  二本の毛色の違う作品をやるんだろうなあ、て両サイドを突き詰めて書いていったら自然とシチェーションコメディの範疇に収まってしまった。
A  それはもうシチェーションコメディとしてしかものを作れない、てことだね。つまり、「みんなのへや」はシチュエーションコメディの骨組み・システムの面白さに焦点があって、対して「無縁バター」はその場面設定・状況、つまりシチュエーション自体の面白さを語っているものです、と。
T  だから、アガリスクの、冨坂友の現時点での書き方・作り方っていうものを両側から攻めている作品になりました。
A  たぶん今までのどの作品より方法論的な冒険はあるよね。
T  わりとラジカルめな。、、、「わりとラジカルめ」っていうこの尖ってなさ(笑)。
A  それはいい言葉だな。「みんなのへや/無縁バター」は、「わりとラジカルめ」な作品です、と。
 

2010/09/06 トミサカ | | コメント(0)


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